書物の「本質」をとらえなおす「ROUND ABOUT THE BOOK」
2020年10月~2021年3月オンラインで開催されたAPL関係者+大学生対象の連続セミナーを要旨と講演映像で再現します。
■コーディネーター&司会 仲俣暁生
■目次
第1回 記憶の環境としての本とコンピュータ 山本貴光(文筆家、ゲーム作家) 講演映像
第2回 現状の電子書籍をみて思うこと 円城塔(小説家) 講演映像
第3回 積読環境とブラックボックスについて 永田希(書評家) 講演映像
第4回 中小出版の未来と出版のコモン 小林えみ(編集者、よはく舎代表) 講演映像
第5回 児童向け総合百科事典の現在 齋木小太郎(ポプラ社こどもの学び研究所 主席研究員)
第6回 総合書店とその「棚」の現在 森暁子(ジュンク堂書店池袋店副店長:人文書担当)講演映像
書物の「本質」をとらえなおす連続セミナー
「ROUND ABOUT THE BOOK(RAB)」実施報告 仲俣暁生
慶應義塾大学SFC研究所アドバンスト・パブリッシング・ラボ(APL)では、2020年10月から2021年3月にかけて、「ROUND ABOUT THE BOOK」と題した連続セミナーを開催した(月1回・全6回)。本稿はその実施報告である。
AmazonのKindleをはじめとする電子書籍ビジネスが日本でも本格化した2010年代以後、「本の未来」についての議論がさまざまな論点で喧しく行われてきた。しかし2020年代に入ったいま電子書籍市場の現実をみると、コミックス市場での順調な成長を除けば、市場規模や利用率の面でも、また技術的なブレイクスルーの面でも期待したほどの進展がみられず、「電子書籍」のイノベーションは止まり、長期にわたる停滞を余儀なくされているといったほうがよい。
その理由の一つは、書物(本)というものが長い歴史のなかで培ってきた多様な側面を、現在「電子書籍」と呼ばれている技術とサービスの体系が十分にカバーしきれていないからではないか。本セミナーではこうした問題意識とともに企画された。
そこで本セミナーの開催に先立ち、私たちは以下のマニフェストを掲げた。
20世紀は書物が大量生産・大量消費された時代だった。だが21世紀に入り、デジタル・ネットワークとパーソナル情報機器が書物の果たしてきたマスメディア的機能の一部を代替しつつある。書物を支える物理的・制度的な基盤が大きく変動するなか、そもそも「書物とは何であったのか/ありうるのか」について、新しい視点からとらえ直す必要があると思われる。
そこで、いま書物に対してユニークな視点からアプローチしている人物をゲストに招き、慶應義塾大学SFC研究所アドバンスト・パブリッシング・ラボ(APL)の研究メンバーとの共同討議を行いたい。この討議には「書物」の将来という問題に強い関心をもつ外部メンバー、学部生・大学院生も参加を歓迎する。
この呼びかけに対して、APLの研究メンバーをはじめ、6人のゲストパネリスト、人文書を中心とする編集者・出版者、書店人、ジャーナリスト、小説家を含む著述家、慶應義塾大学の学部生・大学院生など、のべ数十名の参加を経て活発な討議が行われた。本稿は、各回のゲストを招いた主催側の問題意識と、当日の発表内容の概要を報告するものである。
第1回 記憶の環境としての本とコンピュータ 山本貴光
初回の講師には山本貴光氏をお招きした。山本氏は『文体の科学』(新潮社)、『「百学連環」を読む』(三省堂)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『マルジナリアでつかまえて』(本の雑誌社)といった著作でユニークな書物論を展開してきた文筆家・ゲーム作家で、ゲーム制作やプログラミング、「心脳問題」などのテーマでも多くの著作や訳書がある。また今回の山本氏の発表内容は直近の著作『記憶のデザイン』(ちくま書房)の内容とも関連している。
1)「読書の環境」
本をめぐる議論は多くの場合、単体の「本」をイメージして行われる。読書用装置としてのcodex(冊子)は、材質や形態といった物理面(ハードウェア)でも、目次・柱・索引など編成技術(ソフトウェア)の面でも長い歴史のなかで洗練され、外部記憶媒体としてほぼ完成形に至っている。問題はそれらが一定以上の質量(mass)を形成した場合である。ましてや現在は「本」以外にも、学術論文、雑誌記事、ブログやSNSのオンラインテキストなど、著作の単位としてみることが可能なコンテンツの生産が爆発的に増大し、検索などを介してアクセス可能にもなっている。他方、紙の冊子を前提に形成されてきた「書棚」や「書斎」といった本の環境を形成する古典的なメタ装置が、紙と電子のハイブリッド環境のなかでどうなるかについては、十分に議論されてこなかった。山本氏の発表はこうしたなかでの記憶の環境がテーマであった。
現在の日本の年間出版点数はすでに7万点を超え、世界のウェブサイト数も18億(2020)を数える。さらに「小説家になろう」に象徴されるウェブ小説の各種プラットフォームも大きな人気を博している。コンテンツが爆発的に増え、「情報の濁流」(永田希『積読こそが完全な読書術である』、2020)を形成している。また、こうした技術環境のなかでは記憶の書き換えが加速しており、フェイクニュースをはじめとする虚偽情報が流通しやすい。そこには人間の認知バイアスも絡んでおり、全体として記憶の「遠近感」が変容している。以上の前提条件のもと、山本氏は次のような問題提起を行った。
人間の記憶には短期記憶と長期記憶とがあるが、ネットで流布している情報のほとんどは短期記憶のまま忘れられてしまう。書物もそうした「濁流」のなかで居場所を見失っている。そのなかで我々はどうしたら「正気を保つ」ことができるのか。一つの導きの糸は、先の『積読こそが完全な読書術である』(永田)で提案されていた「自律的な積読のビオトープ」であろう、と山本氏は示唆する(永田氏は第3回の登壇者。そこでもこの論点にふれる)。いわば、「人間の身の丈にあった情報環境をつくる」ことだ。虚々実々が目まぐるしく渦巻く中で「正気を保つ」ためには、自分の記憶を世話(ケア)する必要があるが、それだけでなく、「意識的な努力なしに記憶を促す環境」をつくることも必要だと指摘した上で、山本氏は自身が実践している次の二つのアプローチを示した。
2)「記憶の劇場」
人間には、覚えようとしなくても記憶しているものがある。たとえば通いなれた街の配置や、書店や図書館の見慣れた棚の配置などである。これらは同じことを何百回となく繰り返しているからこそ、ごく自然に記憶している。15-16世紀イタリアの哲学者ジュリオ・カミッロはローマの円形劇場のような場所に記憶を配置していく記憶術を発案し、「記憶の劇場」と名付けた 。文字やシンボル(絵文字)を空間に配置していくのは西洋における記憶術の基本である。
このような大がかりな「劇場」までいかなくとも、本というオブジェそのものが「記憶のインデックス」となっていることを山本氏は強調する。本の背表紙、判型、デザイン、文字要素などはすべて「記憶の場」であり、たとえば背表紙に書かれた本のタイトルは「内容のインデックス」であると同時に、読者自分のなかにある「記憶のインデックス」にもなっている。言葉を換えるなら、一冊の本のなかにも「ビオトープ」が形成されているのだ、と。
読者は本と付き合うなかで、物理的にも心理的にも本を育てて自分のものにしていく。山本氏が先に述べた記憶を「世話する」とは、そのような意味である。その手段の一つが「マルジナリア(余白への書き込み)」だ。本は買ってきた時点ではすべて同じ大量複製品だが、読者が読んだり書き込んだりしてカスタマイズすることで、物理的に変化するだけでなく、読者との心理的な関係も変化していく。当然、そこでは「記憶」も変わっていく。この「世話する」という表現は、ソクラテスの「魂を世話する」という言い方に倣ったものだと山本氏はいう。
山本氏は、夏目漱石の『文学論』を十何年ものあいだ繰り返し読み、のちに『文学問題(F+f)+』という本を書いた。同書の執筆には、もともと自分ひとりの理解のためにしていた書き込みが大いに役立ったという。じつは漱石自身も熱心な「マルジナリアン(余白に書き込みをする人)」であり、たとえばモーパッサンの小説の余白に、「モーパッサンは莫迦に違いない」などと書いているという。山本氏はその他にも歴史上のさまざまな著者たちによるマルジナリアの例を図示してくれたが、これらは『マルジナリアでつかまえて』 のなかで詳しく紹介されているので、興味のある方は参照されたい。
3)現状の「電子書籍」に足りないこと
その一方で、「記憶の環境」としてのコンピュータはどこまで進化しているか。山本氏は1980年代はじめからパソコンを使ってきたが、いまだに不便だという。その一つがコンピュータ環境での読字環境、すなわち「電子書籍」である。氏は紙の本を断裁してスキャンして電子化した本、いわゆる「自炊」本を1万冊程度所持しているが、30インチ程度のディスプレイでも、フォルダを開いた際に40〜50タイトルしか一度に目に入らず、物理的な本棚に及ばないと指摘する。
またデジタルデータの利点である「検索」にも限度がある。それを象徴するのが、いわゆる「Machiavelli問題」である。ルネサンス期の政治思想家Niccolo Machiavelliの日本語表記は、氏が確認しただけで12通りもある。「マキャベリ」とタイトルにつけたファイルは「マキャヴェッリ」では検索にかからず、気をつけても誤変換や誤記は避けらない。しかもいまは紙由来の本(自炊本や電子書籍)だけでなく、ネット上の論文アーカイブにも大量の文献がある。氏はこれらの一元管理が大いなる課題でありつづけているという。
さらに現在の電子書籍アプリをもちいた読書における、読みたいと思ってから実際に読めるまでの行動ステップ数が、紙の本よりも圧倒的に多い問題についても指摘がなされた。iPadに電源を入れ、特定のアプリケーションを立ち上げ、書棚を模したインタフェースから本を選んでクリックするまででも、すでに3ステップかかっている。また物理的な書棚であれば、その前に行きさえすれば棚に入った本が目に入る。しかし電子書籍の場合、自発的に端末にスイッチを入れ、読みたい本のデータを意識的に探したり検索しないかぎり、そもそも目に入ってこない。
4)「知識OS」の試作
これらの問題を解決するため、山本氏は現在、コンピュータを「記憶の場」にするためのインタフェースとしての「知識OS」を試作している。スキャンされた約1万冊の本の電子データにくわえ、数千の映像、数万曲の音楽などを通いなれた書店の見慣れた書棚のような「身の丈に合う」場所に紐付け、デスクトップに表示するというものだ。具体的には、まず氏が現在住んでいる家の3Dモデルを作成し、電子書籍などのファイルやデータをヴァーチャルな書架に配置し、「記憶の庭」のようなかたちで記憶と場所とを結びつける試みをしているところだという。
最後に山本氏は、「本は強いが、データは弱い」と述べた。40年間のあいだに氏がつくったゲーム作品などのデータのうち、かなりのものがすでに失われてしまった。現在はデータを五重にバックアップをとり消滅を防いでいるが、こんどは新たに「同期の問題」が生じる。しかし、氏が小学生のときに買った本は、いまでも家の書棚にある。これはウンベルト・エーコがジャン=ジャック・カリエールとの共著『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』のなかで、「耐久メディアほどはかないものはない」という章題で論じていたことに通じる。
[まとめ]
山本氏の発表から我々が受け取った課題は、「情報の濁流」ともいうべき膨大な「本」の集合から切り出された個人蔵書を簡単にハンドリングできる「身の丈」にあったUIの必要性、さらにそれらを百年単位のロングタームで保存し、参照できる技術の必要であると思われる。
第2回 現状の電子書籍をみて思うこと 円城塔
第2回の講師には、小説家の円城塔氏をお招きした。円城氏は小説作品でしばしば書物論のモチーフを展開しており、またウェブエンジニアとしての経験もある(氏の書物論的作品としては『文字禍』、「パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語」などがある)。今回はとくに文学作品の実作家の立場から、書物と電子書籍の制作プロセスに対する体験的エピソードを伺うとともに提言をいただいた。
1)「ウルテキスト」と「原書物」
『文字渦』という連作短編集が電子書籍化された際、出版社がその校正ゲラの写真をTwitterに投稿して話題になった 。これは同書に収められた「誤字」という作品で、本文とは関係のないルビが延々と振られている部分である。雑誌連載時と単行本時とではルビを変えたが、単行本版をさらに電子化する際、リフロー型の電子書籍で読者が文字サイズをどのように変えても、表示される画面がルビの禁則にひっかからないよう、あらためてルビ部分のテキストを直した。その際の修正指示である。ゲラに手書きで赤字を入れなくてもできたが、このときは急ぎの作業でもあり、従来のワークフローに従った、と円城氏はいう。
では、これから電子書籍制作のワークフローはどうなるべきか。世間では「小説家は一人でできる仕事」だと思われているが、実際はそうではない、と氏はいう。校正ゲラのやりとりに象徴されるように、著者原稿が最終的に本(紙書籍、電子書籍)として完成するまでには、作者と編集者、校正者、印刷・制作担当者との間でデータや紙のやりとりが幾度も行われる。問題はこのワークフローのなかで、校正・校閲の部分が完全に紙に特化していることである。
原稿が本になるまでのワークフローは、理想的には図(以下)のようになるべきだと円城氏は指摘する。この図で「ウルテキスト(urtext, ウアテキストとも)」とされているのが、著者の書いたオリジナル原稿である。このウルテキストが編集・校正され、さまざまなメタ情報が付加されると「原書物」になる。これを組版して印刷・製本すれば紙書籍に、コンパイルすれば電子書籍になる。だが現実には電子書籍が「原書物」からではなく、紙書籍用のInDesignのデータから生成されることが多い。しかもウルテキストの再現にしばしばOCRが使われている。OCRの精度が99パーセントだとしても400字詰め原稿用紙一枚あたり4字の間違いが生じることになり、あまりに不合理である。他方、IT系版元ではGithubで原稿管理を行い、ワンソース・マルチユースが実現している。これを文芸の世界に広げることが必要ではないか、と円城氏は指摘する。
また氏は、現状の電子書籍のバージョン管理にも問題が多いとした。様々な資料を電子データを入手することが増えているが、その場合に、①版の指定ができない、②引用箇所の指定がしにくい、③電子ストアで任意の版が入手できない、という問題が起きているという。では理想的な「原書物」には、どのようなデータとメタデータが含まれているべきか。氏はその要素として、①本体テキストデータ、②版ごとの差異(初版から最新版までのすべて)、③媒体ごとの差異(紙版と電子版のそれぞれでどこを表示するかの指示)、④AI(禁則管理など)を列挙した。究極的にはこれらを保持する「バベルの図書館」(ボルヘス)があればよく、紙の本はそれらのバックアップないし美術品として存在することになる。
原書物の「バベルの図書館」が生まれると、以下の利点があると円城氏はいう。①オリジナルが定まる(引用は直接そこから引く)、②国語学研究の研究用データベースとなる、③AI(機械学習)の学習用資料にもなる、④「自由出版」が可能になる、などである。引用は原典からなされ、そこからn次創作などで得た収益はネットワーク上でオリジナルの著者に還元される。以前に鈴木健氏が提唱した「PICSY(伝播投資貨幣)」のようなものがあれば、データ相互の連鎖関係がはっきりしているので支払いができる。この仕組みができれば誰でも好きな作品を束ねてアンソロジーを編み、そこに自分なりの序文や解説なりを付加して売ってもよい。 (このセミナー終了後に刊行されたドミニク・チェン『コモンズとしての日本近代文学』(イースト・プレス)は青空文庫のソースを用いたその種の試みである。)
2)「夢の書物」へ
デイヴィッド・ダムロッシュが『世界文学とは何か?』 で示した「世界文学」の概念は、翻訳され、解釈され、引用され、書き換えられ、また翻訳されて……という繰り返しによって生まれるネットワークの結節点、つまりハブとなるようなテキストのことだが、いまの電子書籍ではそうした「世界文学」が生み出される条件が用意されていない、と円城氏は指摘する。そこで、今後の「夢の書物」には以下のデータをも内包する電子書籍と、それを可能とする基盤が必要ではないかと氏は提案した。
・音声読み上げのための補助情報
・ルビ情報
・すべての漢字の適切な読みの指定と、かな―漢字変換の履歴
・その他の細かな修正履歴など、作家が入力したキーログのすべて
作家がテキスト確定のために行う作業のなかでは、じつは膨大なデータが生まれている。だが現状では、そのほとんどが捨てられている。これらのデータは文芸批評、自然言語研究、認知科学の研究などに役に立つ。極端なことを言えば、小説家が作品を書いている間に起きていることの全情報(位置情報、身体の動きなど?)が入っていてもいい、と円城氏はいう。なぜなら情報熱力学的に見た場合、わざわざデータの消去はエントロピーを増大させるだけだ。
これらは遠い将来としても、現実的な目標として円城氏は以下の四つを挙げ、これらが揃ってようやく、データ処理可能な構造化された「バベルの図書館」が実現するとした。
・表記揺れスクリプト:技術書ではよくtextlintが使われるが、小説の場合、表記揺れの解消方法は文章の種類によって異り、一つの辞書では済まない。
・正字確認スクリプト:出版社ごとに正字の規定が異なっている。
・ルビ打ちスクリプト;いまはInDesignで検索をかけているが、それでは不十分。指定語の初出に指定どおりにルビを振るスクリプトが必要。
・原稿のやりとりの際にdiff(差分)をとれるようにしてほしい。
円城氏は、もし出版社がこれらを実現不可というならば、「文芸作品の制作過程には紙が不可欠である」ことの根拠が示されるべきだ、とした。紙を必要とする合理的根拠はおそらくないだろうが、対応できないかもしれない。長期的に見ると、そこが文芸書と非文芸書の境目になっていく可能性を氏は示唆した。すなわち将来において多くの本では、①縦書き、②紙のためのフォント、③一文字ごとに細心の注意が込められた組版、などが失われていくだろう、と。
しかしこうしたドラスティックな変化は、書記具が筆から万年筆になったときも、ワードプロセッサーに変わったときも起こったことなので、変化を憂いていても仕方がない。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』も単に「昔に戻ろう」という本ではなく、「陰翳」の失われたあらたな諸条件のなかでやっていこう、という前向きな本だった。いずれ「レイアウト調整用AI」のようなものが生まれるだろうが、そのAI自身が小説を書いてもよいではないか、とさえ円城氏はいう。大量に生成されたその「小説」を誰が読むのかといえば、「シン・Google」のような人間ではない存在が読むのだろう。そして情報は人から離脱していく、と円城氏は締めくくった。
[まとめ]
円城氏の発表は体験からくる具体性に富んでおり、制作ワークフロー上の諸問題が、デジタル・ネットワーク社会における書物の本質的なあり方と結びついていること説得的に示された。それらを乗り越えた先の「夢の書物」のビジョンが示されたことも有益であった。
第3回 積読環境とブラックボックスについて 永田希
第3回の講師には、永田希氏をお招きした。永田氏は2020年に刊行された『積読こそが完全な読書術である』でユニークな「積読」論を展開して話題になった書評家である。本セミナー開催時には集英社のサイトで書物と貨幣の相同性をめぐる論考をウェブ連載中であり、こちらも2021年9月に『書物と貨幣の五千年史』(集英社新書)として刊行された。永田氏には新著のキーワードである「ブラックボックス」という言葉にも触れてもらいつつ、書物というメディアがもつ本質的な二重性について話していただいた。
1)「閉じ」と「開かれ」のあいだに
永田氏はまず、『積読こそがが完全な読書術である』のなかでも引用されていた、フランスの哲学者ジャン・リュック・ナンシーが『思考の取引』で述べている書物論に触れた。ナンシーによる「書物」の定義は、〈それは閉じと開かれのなかにある〉というものだ。「閉じ」とは表紙や背表紙は見えているけれども、中になにが書いてあるかはわからない状態、それに対してページが開かれている状態が「開かれ」である。しかし、あるページが「開かれ」ていても、本の他のページは「閉じて」いる。また「閉じ」の状態でも、表紙や背表紙は見えている。そのように本はつねに「閉じ」と「開かれ」の合間にあると永田氏はいう。
この考えを情報環境全体に拡大して捉えてみると、世の中には、ふたつの積読がある。まず、情報が濁流のように溢れて増殖を続け、人間にはもはや処理しきれなくなってしまった現代の情報環境そのもの。これがマクロな視点からみた「積読」である。さらにそのなかに、多くの人が「積読」という言葉から想像するようなミクロな状態がある。永田氏は後者のような個人的な「積読」環境を、『積読こそが〜』では「ビオトープ」と名付けている。この二つの「積読」環境は巨視的と微視的、あるいはマクロとミクロという二つの「層」として考える必要があり、両者は上の層に下の層が含まれる構造をしている(ナンシーのいう「あいだ」がそこにある)。積読されている一冊一冊の本にさえ、マクロとミクロの関係を見出すことができ、さらに深く考えるなら「書かれていること」にも「閉じ」と「開かれ」という二つの層があると永田氏はいう。上の図はこれらを整理したものだ。ここでは本の「外側」と「内側」は完全に対応しているわけではなく、つねに取りこぼし(のちに触れられる「バグ」)がある。しかしその取りこぼしを意識せずに人は暮らしているし、意識しないほうがよいのかもしれないと永田氏は述べた。
2)すべてはブラックボックスである
永田氏の書物論で重要なのは「ブラックボックス」という概念である。たとえばコンピュータという機械からは、何かの情報を入力すると何がしかの結果が出力される。しかしそのときコンピュータの内部で何が行われているのかは、外からは「不可視化」されており、わからない。永田氏は、書物や貨幣もこのような意味でのブラックボックスであり 、さらに言えば、インターネットのような「通信」もまたブラックボックスと呼べると永田氏はいう。これらと関連して、東浩紀と石田英敬による『新記号論――脳とメディアが出会うとき』 のなかで、石田氏がフロイトの議論を参照しつつ、人間の精神における通信のような様相について語っていることも永田氏は紹介してくれた。
こうした考えに立つとき、人間の「精神」もまたブラックボックスの一つとして挙げられる。さらに「歴史」や「社会」もブラックボックスになっている。なぜなら、「日本社会」や「人類社会」という言葉が用いられるときにも、その内訳を完全に把握している人はいないからだ。社会を構成する人間そのものが一種の「ブラックボックス」であり、それを「開く」ことはできない。したがって人間が構成する「歴史」や「社会」もまたブラックボックスである、と永田氏はいう。つまりあらゆるものがブラックボックスである、ということになるが、共通するのはその内部が「不可視化」されていることだ。書物、貨幣、機械、通信、精神、歴史、社会といった概念を作り上げることで、人間はそれまで名前がついていなかったもの(=ブラックボックス)に名を与えてきた。その最たるものが貨幣であり、貨幣をその一部に含む広義の「書物」だと永田氏はいう。ブラックボックスという概念をつかって書物をこのように抽象的に考えていくと、「紙の書物」と「電子書籍」とを分けて考える必要はなくなってくる。どちらもブラックボックスである点では違いがないからだ。
3)新時代の「読み・書き・そろばん」
さらに永田氏は、日本でリテラシーを意味する「読み・書き・そろばん」をコンピュータ用語に置き換え、「読み」をデコーディング、「書く」をコーディング、「そろばん」をコンピューティングと考えてみることを提案した。このように考えることで、コンピュータにおける「バグ」の問題をリテラシーにも当てはめることができる。人が何かを読み解こうとするときにも、書こうとするときにも、計算しようとするときにも、プログラミングでいうところのバグが必ず入り込む、と永田氏はいう。「外側」と「内側」のあいだにきわめて多層な構造をもつ書物には、基本的に大量のバグが多層的に入りこんでいると考えなければならない。さらにバグは、人間が生み出した概念にも当然ながら含まれる。「人新世」「グローバリゼーション」「ポピュリズム」など最近話題となっている言葉の例を挙げつつ、これらの概念にも多層的にバグが入っていると考えないと、人はそれらについて考えることはできても、バグの影響を免れることができない、と永田氏は指摘した。
4)「積読」と「開かれ」のジレンマ
永田氏の最初の著書『積読こそが完全な読書術である』は、あえて挑発的なタイトルにしたのだという。買った後に「積んでます」とSNSに投稿する「読者」(ここでは「積んで」いるだけの者も含める)がおり、起きてほしいと思ったとおりの現象が実際に起きた。また、この本を「積読を推奨している」と文字どおりに受け取った人が多かったことに触れつつ、実際に自分はそのように書いたが、同時に「果たして本当にそうなのか」とも思いながら書いたのだと永田氏は述べた。「本は読まなければいけない」「本をたくさん読んでいる人は偉い」といわれる状況に、氏はつよい抵抗感や拒否感を覚えるという。たしかに同書は「積読のすすめ」を書いた本ではあるが、それだけではない、本のある部分を書いている著者と、別の部分を書いている著者は、時間的に別の人間なのだと永田氏は強調する。本は読みたくない、本を読んでいる人が偉いなんてことはない、という気持ちを込めて書いた本でもあり、そこまで読んでほしい、と。つまり『積読こそが完全な読書術である』という本は様々な意味で二重性を負っているのだ。
商業出版物として刊行する以上、「売れて話題になる」ものにしなければならない。出版社だけでなく、取次や書店まで業界全体が潤うことが商品としての本には求められる。そうしないといまは本を出しにくい時代だからだ。しかし同時に、そうした体裁のなかにその「体裁そのもの」を否定するメッセージも込めたという。あえて挑発的なタイトルをつけたのも、たんに「読者」からの挑発的な反応を誘おうとしただけではない。本の骨子だけを取り出して「読んだよ」とアピールする人に対して、むしろ反感を憶えるような人にこそ自分の本を読んでほしいと思っている、と永田氏はいう。この本の挑発に反応するような人にこそ、この本に込めた「開かれ」のほうに含まれる内容が届いてほしいと思って書いたのだ、と。
しかしここにはジレンマがある。そういう人たちはまだこの本を「積んで」いるので、「開かれ」に到達できていない。この逆説をどうしたらいいのかは、この本を書いている段階ではわからなかったし、本を書き上げた現在もまだ分からない。いまもそのことについて考え続けている、と永田氏は報告を締めくくった。
[まとめ]
この世に書物論は数多くあるが、その多くは書物史あるいは個人的な読書史に根ざしたエッセイであり、書物というメディアを原理的に考察した論は少ない。そのなかで数少ないナンシーの書物論を敷衍した永田氏の書物論は、「積読」というキャッチーな話題の奥底にある、「本を読むとはどういうことか」という深い問題を指摘している。近著の『書物と貨幣の五千年史』ではこの問いがさらに考察されているので、ぜひ参照されたい。
第4回 中小出版の未来と出版のコモン 小林えみ
第4回の講師には小林えみ氏をお招きした。小林氏は出版社よはく舎代表として書籍出版業を営むかたわら、東京・府中市にあるマルジナリア書店という本屋を経営している。中小出版社の団体である版元ドットコムの幹事社も務めており、現在の出版業界の状況を多角的な視点から捉えているキーパーソンの一人である。演題にある「コモン」とは、小林氏が「早稲田文学」2020年冬号に発表した「コモンでつくる出版の未来」という文章の鍵概念であり、今回の講演ではその趣旨をさらに深堀りする話をうかがった。
1)「マルジナリア書店」創設の意図
小林氏はまず、前年(2020年)の新型コロナウイルス感染症の蔓延のもとでの出版業界の状況について概括した。業界紙「新文化」の記事 によると2020年の紙の出版市場は1兆2237億円(同1.0%減)と小幅マイナスにとどまり、電子出版市場が3931億円(同28.0%増)と大きく伸長した。だが書物は生活必需品ではない以上、出版市場は中長期的には狭まって行かざるを得ない、と小林氏は予測する。少子高齢化のもと日本語市場自体が減少しているからだ。
他方、コロナ禍のなかでオンライン配信が増えたが、書店からの配信も多く、「書店という場」が見直されたのも事実だったと小林氏はいう。この状況下で本が売れ伸びたのはSNSやウェブツールでの読書会との親和性が高かったからで、リアルタイムで会えないなかオンラインの読書会などがその代替となったと氏は分析する。そうした状況のもとで2021年1月に小林氏がオーナーとなり開業したのがマルジナリア書店だ。場所は東京都府中市の分倍河原駅近くで広さはおよそ12坪。乗換駅の改札口間近にあるビルの3階である。近隣の府中駅周辺には大型書店もあるが、分倍河原周辺の商圏には人文書の読者も住んでおり、開店ボーナスをある程度見積もったとしても、地元の人がかなり多くの本を買っている手応えを得たという。
マルジナリア書店の設立目的として小林氏は、①女性の地位向上と関連書籍の刊行、②後進の育成、③地域活性化の3点を挙げた。とくに女性がメディア・社会に登場できる場を設けることには意識的であり、版元ドットコムでも出版界での女性の地位向上を働きかけているという。また人文書の置かれる書店を開業することで、この地域の人にとって知識との出会いの場となることを企図したという。
2)出版のコモン
さらに広い視点から本の世界をみた場合、コロナ禍のなかで図書館の機能が制限されたことに目を向けるべきだ、と小林氏は指摘する。「早稲田文学」2020年冬号 に寄稿された「コモンでつくる出版の未来」でも、長期的には「本の無料化、情報の共有化=コモンの推進」を図るべきだという問題提起が行われていた。すでに存在している「出版のコモン」として図書館という公共の場があり、公立図書館だけでなく「まちライブラリー」など民間の図書館も増えている。出版界は図書館を「無料貸本屋」化していると批判し「本は基本的に本屋さんで買うもの」と発言した出版社社長もいたが、小林氏はこの考え方には明確に反対だという。
ただし「コモン」とはすべてを無料にすればいい、ということではない、ということも小林氏は強調する。本のマネタイズの仕方も多様化しており、広告、同人誌、自費出版、自己資金負担の商業出版、クラウドファンディング、助成金等々の資金源がある。そのなかで「読者が買う」というモデルだけを絶対視して堅持する必要はない。紙の出版のビジネスモデルは20年以上も停滞しているが、「少年ジャンプ+」が無料配信を始めるなど、電子のビジネスモデルは着々と進化している。人文書の出版社もこうした様々なモデルに注目すべきだと小林氏は指摘した。
3)紙とデジタルの今後
マルジナリア書店の開業後、小林氏は店頭での本の紹介機能がより重要だと感じるようになったという。マルジナリア書店では紙の本を並べて売っているが、リアル書店で電子書籍を売るモデルがもっとあってもいい。現状ではどうしてもアマゾンのKindle対応のものを売ることになるので、それ以外のネットストアの電子書籍も売れるように、オールジャパンのプラットフォームが必要ではないか、と小林氏はいう。電子のものをリアルの場で売ることに意味があるかと聞かれることもあるが、たとえばスマートフォンという商品も、販売店がコンシェルジュの役割を果たして、いろいろと説明しながら売っている。
それと同様に、書店という場に表紙をはじめとするいろいろな本の紹介情報が並んでいて、スマホをピッとかざせば、そこで決済ができるようなモデルがあってもいい。あるいは店主に声をかけて、その本がどんな本かを説明してもらってからスマホで決済してもいい。そういうことができないと、マンガ以外の電子の本を売り伸ばして行くのは難しいのではないか。紙の本に対するフェティシズム的な愛着にこだわらず、知らない本のなかに埋もれてしまっている本を紹介していかないと、一人出版社などの登場でせっかく多様化してきた本の供給に対して紹介しきれない、と小林氏はいう。
小さな独立系版元が増えているだけでなく、独立系書店も非常に増えている。マルジナリア書店でも現状では出版取次による委託はつかっておらず、店頭にある本はほとんど買い切りで揃えているという。出版社の側でもそうした独立系書店への対応の必要性が高まっている。そうしたなかで、大手でありながらKADOKAWAが直取引をしてくれているのはありがたい、と小林氏はいう。正味はそれほど安くはないが、出版社の営業とコミュニケーションがとれ、素早く届くことがメリットだ。こうした取り組みが他の大手版元にも広まってほしいという。
マルジナリア書店では大手出版社の本よりも、版元ドットコムに参加しているような中小版元の本がベストセラーリストに入るという。本がそこにあれば、その本を見た人は、大手の本かどうかということとは関係なく、紹介のされ方をみて、よさそうな本だから買う。小さな版元の本でもきちんと紹介されれば売れるのだから、そうした本を独立系書店にもきちんと卸してくれるシステムがあるべきだと小林氏はいう。
4)出版の未来
版元ドットコムの登録社も384社(セミナー開催時点)を数えている。独立系の長所は、個性豊かで大手では出しにくい本が出せることだが、短所としては細分化による非効率が挙げられる。さらに業界全体の問題として技術伝承のなさも氏は指摘した。そうしたなかで、独立系版元は電子への対応も遅れている(ただし、逆に電子で出発する中小もあるという)。たんにPDFをアップロードするだけならば簡単だが、EPUBの制作には追加コストがかかり、独立系には難しい。またマンガと同じような無料モデルを人文書がとることも難しい。
とくに現在の出版界では大手と中小との差が広がっていることが問題だと小林氏は指摘した。そのためにオールジャパンの態勢がとりにくく、アマゾンなどの巨大IT企業への対抗ができていない。日本語市場はかなり特殊なので、オールジャパンでPDFによる電子出版の市場をつくれれば、アマゾンに対する一つの抵抗拠点になりうるはずだと小林氏はいう。
最後に、いま業界を挙げておこなうべきことして、小林氏は図書購入費拡大のためのロビー活動を挙げた。公共図書館をはじめとする「コモン」に対する手当を厚くしていくことは、長期的には出版業界全体に対してプラスの働きがあるはずだ(飯田一史『いま、子どもの本が売れる理由』(筑摩選書)p86「肥田美代子らによる学校図書館改革と図書整備計画策定」を参照) 。さらに急務なのが、業界全体の若返りである。デジタルに流れている有望な人材が出版界に来ないかぎり、出版の活性化はありえないと小林氏は講演を締めくくった。
[まとめ]
小林氏の報告は、コロナ後の出版のあり方に対する問題提起に満ちていた。出版のビジネスモデルはますます多様化し、読者の単純な購入行動だけでなく無料の部分も含めた「コモン(公共)」の場が重要な役割を演じるはず、という力強い見通しは示唆に富んでいた。ITと出版の人材交流、オールジャパン態勢の構築の必要なども重要な喫緊の提言だった。
第5回 児童向け総合百科事典の現在 齋木小太郎
第5回の講師には、ポプラ社の斉木小太郎をお迎えした。斉木氏は週刊誌記者、音楽雑誌編集者を経てポプラ社に移り、『ポプラディアプラス 世界の国々』の編集や学校司書を対象とする研修を担当するほか、同社のこどもの学び研究所で主席研究員を務めている。ポプラ社では現在、子供向け百科事典『総合百科事典ポプラディア 第三版』の制作中であり、そのなかで工夫している点や子ども向け教育図書の抱えている課題について話を伺った。
1)「ポプラディア」改訂の具体的作業
そもそも百科事典は出版物として少し特殊な商品だが、「ポプラディア」にはさらに「子ども向け」という特殊さもある、と斉木氏はいう。最初の「ポプラディア」は2000年に「総合的な学習の時間」が学習指導要領に定められた時期に刊行され(2002年)、現在はどの小中学校や高校の学校図書館や公共図書館にも1セットは置かれているほど普及している。現行の『ポプラディア』第二版は「新訂版」と呼ばれており、現在はそれをアップデートする第三版の制作中(2021年11月に発売予定)。改訂にあたっては「SDGs」や『鬼滅の刃』といった新たな項目が追加されているほか、軽量化やユニバーサルデザインに対応するためUDフォントの採用が行われたという。
この改定作業には、いくつかの課題があった。改訂作業の開始時、十年前に出た「新訂版」のInDesign用データが元になる。しかし、このデータは五十音順に並んでいる。実際に校正や修正、監修チェックなどの作業は分野別に行われるため、項目ごとに切り分けて分類しなおさなければならない。また、第三版の制作にあたっては「ポプラディアネット」との整合性も考えなくてはならなかった。「ポプラディアネット」は『ポプラディア』初版をデジタルパッケージ化した「デジタルポプラディア」のインターネット版で、「新訂版」のデータに修正した記事もあるが、細かいところで項目や記述が「新訂版」とは一致しないところが残っていた。一方で、更新の容易さを生かして独自の更新や新規項目の作成がおこなわれてきた。したがって「新訂版」と「ポプラディアネット」の一方を選べばよいという状態ではなかったという。
ではどのように改定作業を進めたか。まず「新訂版」のInDesignからデータを抜き、見出し語の項目ごとに切り分けた。XMLで抜き出せればよかったが、実際はHTMLで抜き出さざるを得なかった。このデータをもとに、監修者や校正者がチェックできるよう、項目ごとに「新訂版」の記述と「ポプラディアネット」の記述を横に並べた校正シートを作成した。監修者や校正者による修正作業を経た後、項目原稿を50音順に並べた「オフ初校」が出る。セミナー開催時は、この「オフ初校」の校正中だった。
2)子ども向け教育図書の電子化が抱える課題
『ポプラディア』の改定以前に『ポプラディアプラス 世界の国々』という5巻組みの学習セットを編集した経験から、斉木氏は子ども向け教育図書の電子化にはいくつか課題があることに気づいたという。『世界の国々』は小中学校の学校図書館向けにつくられた「学習セットもの」と呼ばれる商品だ。図鑑のようにレイアウトで見せていくタイプの本で、判型はA4判。これは見開きだとA3サイズになる。こうした大型の本を固定レイアウトで電子書籍化しようとすると、見開き表示では文字が小さくなりすぎ、拡大しながら読まざるを得ない。しかしそれだと紙の図鑑のようにパラパラとめくることができず、ざっと読むことや、レイアウトから素早く情報をつかむことができない。また紙面を半分に割ると、写真や図版情報がノドで切れてしまう。それらをどうするかが大きな課題になったと斉木氏はいう。
もちろんリフロー型ではレイアウトから得られる情報が損なわれる。項目ごとにデータセットを作成し、それをもとにアプリ化する方法もあるが、それは「別物」になってしまう。図鑑や事典をレイアウト込みでうまく見せる電子書籍用のエディトリアルデザインができてこないとこの問題は解決しない、斉木氏はいう。講談社の図鑑「MOVE」シリーズのように3Dでキャラクターを動かしたり、電子マンガのように縦スクロールを用いる方法もあるが、『ポプラディア』のように調べ物につかう本の電子化にはなお苦慮しているという。
3)調べ学習のために
次に「ポプラディアネット」を題材にして、斉木氏は紙の百科事典とインターネットの百科事典の違いについて解説してくれた。すべての児童・生徒にコンピュータとネットワークの環境を提供するGIGAスクールの実施が始まり、教育における情報リテラシーやウェブリテラシーの問題に関心が集まっているが、そこで重要なのは、電子版のメリットとして従来よくいわれてきたマルチメディア性やハイパーリンク、コンテンツの随時更新などだけではないことが、教育機関や児童に向けて研修や授業をしていくなかでわかってきたという。
研修では、たとえば「三好市は何県にあるか?」という問題をつかっている。「みよし」と読む市は「みよし」「三次」「三好」の三つあり、このうち「三好市」は徳島県にある。しかし紙の事典だと愛知県みよし市や、広島県三次市と間違える人が必ずいる。わたしたちは「みよしし」という音で事典を引き、最初に目に入った「みよしし」という見出し語に引っ張られてしまうからだ。他方、電子版の「ポプラディア」では検索キーワードを「三好市」とすれば、検索結果は一つしか出てこないため間違いは起きない。ただ、それだと紙の百科事典では自然に目に入り、知ることができる「日本にみよしという名の市は三つある」という情報は手に入らない。同じ情報を得るためには、ひらがなで検索するという検索のスキルが必要になる。紙とデジタルにはそういう「違い」があるのだという話をしている。
あるいは「エベレスト山に最初に登ったのはどこの国の人か」という問題を出すこともある。「エベレスト山」の項目をみると、「イギリス隊のヒラリーとシェルパ族のテンジン」と書いてある。紙の「ポプラディア」でも「ポプラディアネット」でも、「ヒラリー」と「シェルパ族」は青字になっている。紙の百科事典では「イギリス隊」という言葉をみて答えをすぐに「イギリス人」と書いてしまう人がほとんどだが、「ポプラディアネット」では青字をリンクだと思い、クリックして、ヒラリーの項目に行き、ニュージーランドの登山家であることがわかる項目にたどり着く。紙の「ポプラディア」でも、青字は「この言葉は項目になっている」ということを意味するが、直感的に理解し、調べなおすという行動には至らない。このように情報の構造やUI/UXが紙とネットの百科事典では異なることによって、読者が目的にたどりつくまでに得られる情報が変わってくる。紙もネットも基本的には同じコンテンツだが、そういう違いがでてくることを説明をしなくてはいけないことを斉木氏は強調した。
4)ユニバーサルデザインとアクセシビリティへの配慮
「ポプラディア」第三版はユニバーサルデザイン意識してUDフォント(UDデジタル教科書体) で組んだほか、ルビも「総ルビ」に変更したという。児童書は何年生くらいが使うのかを見込んで本をつくる「グレード」と呼ばれるものがあり、「ポプラディア」は新訂版まで「四年生以上ルビ」という考え方だった。現場からはもっと早い学年で使いたいという声があり、総ルビに変更することにした。総ルビ化のメリットは、「読みがな」にも使えることにある。たとえば百科事典を目の見えない人がつかうとしたら、電子テキストの読み上げで対応するしかない。その際、漢字を自動読み上げさせる方法もあるが、それだと間違った読みが混ざってしまう。『ポプラディア』が教育用図書であること、とくに子どもが使うことを考えると、読み間違いを覚えられるのはこわい。第三版を総ルビにした背景にはそのような事情もあったと斉木氏はいう。
さらに児童書の編集では、「漢字をひらくか、ルビを振るか」という問題もある。漢字をひらいてしまうと、検索の際に漢字入力されるとヒットしなくなるし、形態素解析をしようとするときも、既存のディクショナリでは対応できなくなってしまう。こうした問題が、児童書をユニバーサル対応のためにデジタル化したり、音声化(オーディオブック)にする際に、その利便性を機能として反映していく上では、あまり俎上にのぼらない課題としてあるのではないかと斉木氏はいう。またUDフォントの使用にも、問題がないわけではない。UDフォントを採用するのは、読書障害がある子どもたちでも比較的読みやすい文字だからだが、UDフォントにルビをふった場合、たとえば「江」の字を「え」というルビもふくめて一つの文字だと認識してしまうことがあるという。ルビがあるためにかえって読みにくくなる場合があるなど、アクセシビリティの問題の複雑さが指摘された。
司会者との応答のなかで斉木氏は、「読書とは何か」という話題にも触れた。人が読書として思い浮かべるものには大きく分けて論語の素読以来の「教養」的読書と、ふだんの「物語消費」としての読書がある。しかし毎週ある雑誌を読んでいることはなかなか「読書している」とは呼ばないし、論文や専門書を読むことも読書ではないとされる。しかし「読書」といったときに語彙力や読解力が問題とされるのであれば、その対象は物語だけである必要はない。様々な分野のテキストを読んでいる人のほうが、むしろ語彙力や読解力がつくのではないかと斉木氏はいう。そうしたものまでも含めて「読書」と捉えていく調査の必要が指摘され、報告は締めくくられた。
[まとめ]
ウィキペディアの登場により、大人向けの百科事典の市場が壊滅したなかで、子ども向け教育図書としての児童百科が健闘している理由と、その電子化の具体的な取り組みは興味深い報告内容だった。アクセシビリティやユニバーサルデザインの面においても、子ども向け教育図書は一般書に先駆けて取り組みが行われているように思える。前回の小林えみ氏による報告に続いて、「本の未来」への多様な道筋がみえた講演であった。
第6回 総合書店とその「棚」の現在 森暁子
第6回の講師には、ジュンク堂書店池袋本店の森暁子氏をお迎えした。森氏は大宮ロフト店を皮切りに人文書担当を長く務められ、現在は池袋本店の副店長である。日本を代表する大型総合書店で人文書を始めとする様々な「棚」をつくるうえでの具体的な取り組みと、書店の販売現場が抱える問題についてお話しいただいた。
1)人文書担当としての「原体験」
森氏は2001年にジュンク堂池袋本店に入社。最初はコンピュータ書を担当したが、一年半後に大宮ロフト店(現存せず)に異動した際に人文書担当を志願した。当時の大宮ロフト店はテナントの最上階にあり、一日の売上は約300万円。いまとくらべるとまだ本が売れていた時代で、大宮ロフト店の月商も1億円程度あったという。ただし人文書の構成比は新書とあわせても3〜4%で、棚の数も合わせて50本ほどと、それほど大きくない人文書の棚からのスタートだった。大宮ロフト店の来店客の多くは大宮以北からで、そのお客様からは「大きな本屋」とみなされていたが、地域密着という性格もあり、地域の書店をどうつくるかも森氏は学んだという。
ジュンク堂書店池袋本店の名物企画「作家書店」で佐藤優氏に店長に就任してもらった際、佐藤氏が大宮ロフト店での思い出を話してくれたという。作家デビュー前の佐藤氏は近隣にお住まいで、当時この店で人文書担当をしていた森氏も当時の佐藤氏の姿を印象のつよいお客様として記憶していた。ある日、「マサリクの本を探している」と声を掛けられたが、チェコスロバキアの哲学者・社会学者で同国の初代大統領にもなったトマーシュ・マサリクの本が、当時の大宮ロフト店には一冊も置いてなかった。問い合わせがあった以上はお応えしようと、森氏は邦訳が出ていたマサリクの著作を仕入れて棚に差しておいた。「作家書店」のイベントの際に佐藤氏は、当時そのことにたいへん感激したことを話してくれたという。
社会学でカルチュラル・スタディーズが流行った頃も、『カルチュラル・スタディーズ入門』(ちくま新書)などを読み、わかりにくかった棚を基本書を軸に整理しなおしたという。それを見たお客様からもお褒めの言葉をいただき、書店の棚はお客様からの反応をみてつくっていくものだと気づかされた。この二つの出来事が森氏にとって重要な原体験になったという。書店員がつかう「棚」という言葉は必ずしも一般的な言葉ではないが、このように書店員は「棚」の並びを変えたり、どの本をを面にするかなどでお客様と無言の対話をしている。
2)「専門書の棚」と「話題の本の棚」
かつてジュンク堂書店の副社長が新聞のインタビューに答えて、自分たちは「本の最後の砦であるべきだ」と言ったことがある。「最後の砦」とは、どこに行ってもないと思っていた本が、この店に行けばあるとお客様に思ってもらえる信頼感のことだ。しかし毎日何百点と新刊が出るいま、現実問題として、すべての本を棚に収めるのは難しい。ではどうしたら「ここには絶対にある」と思ってもらえるか。「棚」の担当者はそれを示さなければならない。専門書の棚をつくるうえで重要なのは、必ずしも専門知識の有無ではなく、それらを適切に並べるノウハウだ、と森氏はいう。そのノウハウがないと、どんなに本がたくさんあっても、よくわからない棚になってしまう。では、すぐれた「棚」をつくるとはどういうことか。その秘訣について森氏は、毎日本の棚入れをしているなかで、ある本と本を隣り合わせに置くことで「立ち上ってくるものがある」と表現した。
専門書の棚づくりのノウハウについて、ジュンク堂書店池袋本店の「日本古代史」「哲学」「社会学」「思想」の棚を例に、森氏は具体的に解説してくれた。一般的な原則としては最初に「概論」を置き、そこから「各論」に繋げていく。しかしどのように繋げるかは担当者によって様々な考えがある。たとえば日本古代史の場合、ジュンク堂池袋本店では「史料」から並べるようにしている。日本古代史の隣は考古学の棚で、考古学と古代史の違いは文字で書かれた史料の有無にある。古代史の棚の各論の冒頭に史料を置くことで池袋本店の棚はそのことをアピールしている。
人文書の花形ともいうべき思想書の棚を定点観測していると、ここ数年で分析哲学の本が着実に増えていることがわかる。そしてこれらの本は、実際によく売れていると森氏はいう。そこで池袋店の論理学の棚は、フレーゲを先頭にラッセル、ウィトゲンシュタイン、クリプキという順で並べ、さらに日本の分析哲学研究者やウィトゲンシュタインの次世代の学者、言語哲学の本などを配置している。さらにその下の棚には存在論、時間論、プラグマティズム、科学哲学などが並んでいる。このように配置することでテーマ同士の相関関係がひと目で感じられる。すべての本を書店員が読みこなすことはできないが、新刊のあとがきを読んだり、出版社の方からも教えていただいたりしつつ、どのように並べるかを日々工夫して棚をつくっているという。
ここまでは専門書の棚の話だったが、ジュンク堂書店池袋店の一階には「アカデミックタワー」「カルチャータワー」と呼ばれる話題書の棚があり、森氏は現在このコーナーも担当している。専門書の棚では隣の本との系統的な関連や学問的な正しさを意識して本を並べているが、話題書のよい棚は、そのやり方ではつくれない。韓国現代文学の『82年生まれ、キム・ジヨン』と、フェミニズム小説のアンソロジー『覚醒するシスターフッド』を並べた際も、学問的な裏付けをもつほどの関連はなかったが、この二冊を隣同士に置くことで、それぞれの本の核心となる部分での化学反応が起きると考えた。話題書の棚づくりでは、このようにそれぞれの本の「雰囲気」を感じ取りつつ並べていく。この点が専門書の棚との最大の違いだと森氏はいう。
3)コロナ禍のなかでの試行錯誤とオンラインイベント
棚と連動してジュンク堂書店池袋本店で取り組んできた企画のひとつに「本棚会議」がある。書店員は棚の前で、出版社の方に話を聞かせていただく機会が多い。そのときの話にはとても面白いものが多いため、一般のお客様にも聞いてもらいたいと考えた。それを実現した企画が「本棚会議」である。自身の専門や関心のある領域について、研究者の方などに、棚の前で実際に本を抜き出しつつ解説してもらうこのイベントには、毎回十名程度のお客様が参加しているという。「本棚会議」はコロナ禍のなかでオンラインでも継続して行われており、その様子はTwitterや丸善ジュンク堂書店のYouTubeチャンネルで公表されている。
この「本棚会議」の一つの成果として丸善ジュンク堂書店・hontoオリジナル企画書籍の『本棚の前でする勉強の話』という本が生まれた。これは専門家向けではなく。「読書が受験勉強をより面白くする」というコンセプトで高校生に向けたものだが、塾講師の方に学習参考書の売り場で「本棚会議」と同様の試みをしてもらったものだ。また名物企画の「作家書店」でも、著名な作家の方による選書だけでなく、立教大学文学部の教授や豊島区内の三つの高校の教師に協力してもらい、大学生のための書店や中高生のための書店をつくってきたと森氏はいう。
コロナ禍のなか、さまざまなオンラインイベントが行われているが、ジュンク堂書店池袋店でも毎月10本ほどのオンラインイベントが行われている。だがオンラインイベントはあくまでも一回限りのものでしかない。書籍はその場ですぐに読まなくても、自宅の棚に置かれているかぎり、いつでも読むことができる。書店のオンラインイベントは読書経験を深めたり、通常読むには難易度の高いものを音声で初めに聞いておくことで理解できるようになるなどの利点があるとは思うが、それをどのように企画すれば、お客様にとってよりいいものになるかを考えながら日々の仕事をしている、と森氏はいう。
この連続セミナーの直前には、「バーチャルジュンク堂書店池袋本店」 が報道された。テレビ東京が主催する「池袋ミラーワールド」内に、本というコンテンツと書店というメディアを融合したバーチャル書店を構築し、新たな価値を提供する事業化に取り組むというものだ。森氏はこの企画も担当している。バーチャル書店ではリアル書店ではいろいろなことができるが、なにもかも詰め込んでしまえばサーバが重たくなり、かえって使いにくいものになる。いまのところこのバーチャル書店には、本の画像をクリックするとhontoのブックツリーやランキングを見せるページに飛ぶ機能が予定されている。ジュンク堂書店池袋本店の棚の「見た目」が反映されている程度のものから、さらにこのバーチャル書店をどのようにしていくのかも課題だという。
[まとめ]
ひとくちで「棚」というが、ジュンク堂書店池袋店では専門書の棚と話題書の棚のつくり方がまったく違う。この違いは書物がもつ「内容的真正性」と「現実に対して働きかける機能」の両面を、それぞれもっとも有効に引き出すためのノウハウだということが、書棚の画像をまじえつつの具体的な解説によってよく理解できた。「棚」のもつこうした機能はバーチャル書店や電子書籍の時代にどうしたら再現、あるいは強化できるか。この連続セミナーの最終回にふさわしい大きな課題をいただいた。